あおり運転

あおり運転。最近交通事故の原因で世間の注目を受けています。東名高速であおり運転を続けた末、家族4人の乗った車を交通事故に巻き込み両親が死亡、子供が怪我をするという痛ましい事故を引き起こした男の裁判員裁判で、地裁は危険運転致死傷罪の成立を認め懲役18年の判決を言い渡しました。この判決は危険運転致死傷罪の成立を停車中だった車に適用できるかどうかの判断が注目されていましたが、重大な結果を招いた男の、注意されて腹がたったという短絡的で身勝手な行動は強い非難に値するという判断が下されました。

飲酒運転のトラックが乗用車に追突し幼い姉妹が死亡した事故(東名高速)、飲酒運転で3人の子供が命を落とした事故(福岡市)等をきっかけに、悪質運転に向けられる社会のまなざしも厳しくなり法整備が進みました。17年前に危険運転致死傷罪が新設された当時は想定されなかった状況である、車を止める行為がこの危険運転にあたるかどうかが大きな争点ででした。判決は、停車したことを危険運転致死傷罪に問うのは無理がある一方で、事故に至るまでの妨害行為と密接に関連する行為であり、男の行動と4人の死傷とは因果関係があると結論づけられました。この事故は男が一家4人の乗る車の進路に割り込んで減速を繰り返す妨害行為をして最後は前に回って自分の車を高速道路の追い越し車線上で停車した為に一家の車も停車を強いられ、そこに後続のトラックが追突したものです。この男は以前にもあおり運転を繰り返しており、今回の判決が軽いものになってしまっては日常の危険行為を黙認したようなことになり許されてはいけないという認識が世間一般にあった裁判だったといえます。

飲酒運転に対しては、私が運転免許を取った時代(約40年前)とは認識が大きく変わっています。就職したころは仕事終わりに事務所で缶ビール飲んで帰っていく人や、飲んでもアルコールを覚ましてから帰れば大丈夫と言うような間違った認識が一般的にありました。職場全体で焼肉してビール飲んでから運転して帰ったこともよくありました。今思えばこの時代に重大な事故を起こさないで本当に幸運だったとしか言いようがありません。一歩間違えば自動車は人の命を奪う凶器になっていたでしょう。今では職場でも毎朝アルコール検査をしてから仕事に出るように義務付けられていますし、私用中でも飲酒するときは絶対に車を持っていかないのが常識になっています。しかし、今でも飲酒運転で検挙される人が後を絶たないのは残念なことです。今回のあおり運転の

男は何回もあおり運転を繰り返している逆上する性格の男のようですが、2006年の福岡の飲酒運転の男はごく一般的な地方公務員の青年でした。あおり運転をするような人間に対してはドライブレコーダーのような自衛処置も必要だと思いますし、飲んでも運転してしまうという地域あるいは職場の意識を集団として変えていく地道な努力が必要になっています。

千葉外房線内房線の旅

千葉房総半島の旅に行ってきました。千葉には息子夫婦か住んでいたので孫に会いに行ったことがありましたが、南部の房総半島までは行ったことがないので行くことになりました。北海道から行くので台風などに交通機関が影響を受けにくい時期ということで11月はじめになりました。

飛行機で一気に成田空港まで行ったあと九十九里浜方面の白子温泉に宿泊予定で最寄りの駅から路線バスで向かいましたが、結構時間がかかりました。田舎道を走りながら沢山のバス停に止まりましたがいまだに不思議に思うことがあります。長生役場前というバス停があったのですが、何処を見ても畑と小さな民家があるだけで役場らしい建物はありません。帰りも確認しましたがやはり見つけられませんでした。私も北海道の田舎暮らしですが役場はそれなりに分かり安いですよ。

翌日は外房線に乗って終点まで行ってみました。テレビ等でみた情報で海岸線を走りながら海のきれいな景色を見れるつもりでしたが、なんとほとんどが山の中かトンネルで海はあまり見えませんでした。その日のうちに内房線に乗り換えて館山まで移動して宿泊しましたが、白子温泉を出てから館山の宿泊施設まで予想より時間がかかり、景色も楽しめるものではなかったので一日中移動に費やした感じでした。予想とは全く違う汽車の旅となってしまいましたが、この景色を見ながら感じたことがあります。この外房線というほんの短い距離でも人々は谷間の入り江のちょっとした平地に巧みに集落を作って生活していることがわかりましたが、東日本の震災のような津波があったらひとたまりもないような地形ばかりに感じられました。東日本震災の被災地では防潮堤を作ったりしているようですが、日本の地形からして防潮堤のような対策をとれていない危険地域が日本全土には相当多数存在するということが感じられました。

三日目は金谷港からフェリーに乗って鎌倉へ移動しました。フェリーには車が9台ほどしか乗船していませんでしたが、乗船人数はそれなりにおり、比較的天気も良かったので貨物船や釣り船などの海の景色を楽しむことができました。鎌倉についてからは北鎌倉方面の寺院等を散策しながら食事も楽しむことができました。3日目の宿泊は以前にも泊まったことのある由比ガ浜のホテルでしたが、今回の旅行の中ではお風呂も綺麗で一番気分よく泊まれたような気もします。

四日目は江ノ島の展望塔まで登ってみましたが生憎の雨で景色は全然楽しむことができませんでした。晴れていれば遠くは富士山まで観れるはずだったのに残念な結果に終わってしまいました。

今回つくづく感じましたが、ホテルの夕食は我々の年代には多すぎて食べるのにかなりの無理が感じられました。できればホテルの用意された夕食よりも自分で街を散策しつつ選んだ飲食店で少量の食事とお酒を楽しむのがいいように感じました。三泊目の由比ガ浜ではホテルの夕食ではなく、好きなお店で好きな量の食事とアルコールをとることができて楽しむことができました。

「旅は人生の栄養剤」という言葉をどこかの本で見たような気がしますが、日常から離れて三、四日過ごすのは日常の疲れを取るというより精神的には少し解放感が感じられたように思います。  旅はあまり得意ではないけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

地震保険 僅かな損害でも手続きを!!

保険もいろいろありますが、皆さんはどのような基準で選んでいるのでしょうか。

私はシニア世代ですから生命保険や子供の学資保険等の掛け金はなくなりました。今現在支払っているのは、入院保険、自動車保険くらいでそれほど高い金額ではありません。一番負担の大きかった生命保険の掛け金も今はなくなりましたが、60歳すぎて給料も七割ほどに下がっているのであまり楽になったとか貯金ができるとかの実感はありません。子供のための学資保険は、新しく上の学校へあがる度にまとまった金額が降りてくるうえに子供が18歳になる満期にはそれなりの金額がおりてくるので、その都度子供の学校関係で掛かる費用の調達に有効に使うことができました。入院保険は子供に賭けておいてもほとんど該当するようなことがありませんでしたが実際に子供が対象になるようなことになったら大変な事ですね。私の年齢になるとある程度は対象になるようなことがあるようで、一昨年に握力が無くなり腕の神経の手術になったときは一週間入院して自己負担で支払った金額と入院保険で出た金額がちょうど同じくらいで助かりました。

自分の生命保険はどうでしょう。私はまだ死んでいませんので支払ってもらったことはありませんでしたが、取りあえず60歳までで掛け金の支払いは終了しています。若い頃は何もわからないまま、上司や知り合いに頼まれるままどこかの生命保険に加入していましたが、今考えると随分高い掛け金の保険を勧められていたような気がします。今貴方にもしかのことがあったら家族が路頭に迷わないためにはこれくらいの金額が必要だと言われるまま契約していたような気がします。それが、たまたまあるとき他の業種にいた昔からの知り合いが新しく外資系の生命保険の取り扱いを始めたので相談してみました。すると、生命保険ではあるけれど、もしかのことは普通は起こりませんから、そんなに高い金額の保険は必要ないのではないかと提案されました。そう言われてみると自分にはもしかのことは起こらないだろうと納得してしまったので少し安価な生命保険に契約することができました。ただし、子供が全員学校を卒業するまでは掛け金の安い掛け捨てのもう一つの契約もしました。

今回、台風被害と地震の被害を続けて受けてしまい火災保険、地震保険どちらも加入しているので手続きしてみました。台風被害は火災保険で対応することになっているので、屋根の鉄板が剥がれた事に対する手続きしてみましたが、業者に見積もりしてもらって被害額が一定の額に達しない場合は支払い対象にならないということで適応にはなりませんでした。でも、地震保険の場合は地震により生じた被害(建物や家財)に対し届出をすると保険会社側の人が訪問し被害の査定を行っていきます。損害部分の修理費用の額等に左右されず被害の査定結果により建物の現存価格に対する%で計算されて支払われるようです。市町村による罹災証明等には関わらず実際の被害の認定によって支払う額が決定するようです。ですから建物に生じたわずかな壁のひび割れ等でもある場合は保険会社に届け出て査定を受けるべきだと思いました。我が家も土台の僅かなひび割れでしたが査定の結果、それなりの金額が支払われるようです。

地震にあった場合は一度自宅全体をチェックしましょう。長い間掛け金払ってきたのですから。

同窓会 台風の影響受ける

先日、大学の卒業後38年ぶりの同窓会に参加してきました。大学のある都市に集合し温泉に一泊で行われ、幹事は地元で働く同級生3人で毎回大変だろうと思いますが頑張ってくれています。久しぶりに学生時代に親しんだモール温泉に浸かって日頃の疲れを癒してきました。20年目の同窓会に参加して以来2回目の参加でしたが、今回卒業以来初めて顔を合わせる人もかなりいました。夫婦で参加したした人も2,3人いましたがほとんどが一人で来ていました。やはり独身時代の気分で参加したいですよね。

38年も経っていると風貌のかなり変わっている人も多く、頭髪はもちろん顔つきも全く変わっていて一目見た感じでは全くわからない人もいました。当日、JRで到着し会場までのバスセンターの待合室で30分ほど待っていると顔のわかる同窓生が一人来たので待ち時間の間歓談してから出発時刻5分前になったので会場行きのバス乗降口へ移動しました。すると、待合室で近くにいた同年代くらいの二人も移動してきました。もしかしてと思ってそちらを見ると、そちらの二人もこちらを見ています。なんとその二人も同窓生でした。私の大学時代のクラスは40人のクラスで全員憶えているつもりでしたが、二人のうち一人は名乗ってくれてもなかなか思い出せませんでした。話をしているうちに思い出してきましたが、自分の記憶力の無さ、あるいは記憶力の衰え?にがっかりしました。

宴会の席では歓談しながらそれぞれの卒業後の状況や近況を一人づつ報告し合いました。我々はシニア世代で一番若い人でちょうど還暦、年上では65歳までいますが、公務員関係は退職して二次就職、民間では管理職を降格し今までと同様の仕事を続けていました。自営業だった人は還暦を転機にして仕事を後輩や子供に譲って今は軽く仕事を手伝う程度で自分の趣味(乗馬等)を楽しんでいる余裕の人生を送り始めている人もいて人それぞれ人生を歩んでいるようです。中でも最も異色だったのが、卒業後、大学院に進んだが指導教官と合わず一年で退学、医科大学に入学し直して医者になった人がいました。彼はそれほど医療に志があったわけでもないようでしたが、たまたま研修に入った僻地医療で先生が老齢で退職してしまったためそのあとを継ぐ形となって9年間、夜も休みなく一日24時間、9年間僻地の一人勤務をこなしたそうです。その後、せっかく医者になったので珍しい船医も数年経験してみたそうです。今は一人勤務ではないけれどまた僻地勤務をこなしているようです。人それぞれの人生ですが、家族をもっていてもこのような人生を送れるのはうらやましいような気もしますね。

今回、38年ぶりの同窓会で楽しい一日を過ごすことはできましたが、運悪く台風25号が北海道を通過する日程とぴったり合ってしまいひどい影響を受けてしまいました。帰りの日、JRが早朝だけで他は終日運休すると前日の昼に決定していたため、ホテルの朝食も食べずタクシーで駅へ出発しようとしていたら、なんと全列車運休になっていました。実際の天候は雨は降っていましたがそれほど強くなく、風もそれほどでなかったのに前日夕方決定した運休は解除されないままでした。もう少し臨機応変に対応して貰いたいような気もしますが、途中で立ち往生等が発生すると最近はSNS等でJRへの批判が殺到するので仕方ないような気もします。SNSも便利になった反面、悪影響も多いような気がするのは私だけでしょうか。

地震の爪痕

胆振東部地震から約2週間が経ちました。各被災地ではようやく小中学校や高校の授業が再開されましたが、まだ、避難所として使用されている学校は音楽室や体育館が使用されており音楽、体育の授業はできない状態のままです。給食もまだ外注の弁当で始めているようです。地震で崖崩れ等で生き埋めになって亡くなられた方、昨日のように避難所生活で心労のため亡くなられたお年寄り、ご冥福をお祈りいたします。

今回の災害は震度7というかなりひどい地震だったため、全国的なニュースとなり関心が集まりました。特に中心となった厚真町や隣の安平町は支援物資もボランティアも数多く来て頂いています。厚真町は被害がひどく、まだライフラインも復旧していないところが多いようです。安平町では電気は比較的早く来ましたが、水道の復旧に時間がかかっています。街の中心付近から徐々に復旧し私の家も5日目の夕方にやっと復旧しました。でも、市街地でもまだ復旧していないところがあり、周辺の農家関係は水道の経路が一般家庭とは違った地域があってこの地域は水道管そのものが破損しており復旧には何ヶ月もかかるらしくこれからも生活がたいへんなようです。

今回の地震で全国的な情報として厚真町や安平町が被害の中心地として認識され支援物資やボランティアも順調に集まっていました。この三連休のボランティアの申し込みも各家庭に直接申し込み用紙が配布されましたし、食料も避難所には十分用意できているようで周辺の避難していない自宅にいる人にも取りに来るように放送されていました。このように被害の中心地はそれなりに対応して頂いていますが、周辺の地域の避難生活はそんなに順調ではないようです。先日、新聞にも出ていましたが、隣の鵡川町や日高地方も被害は大きかったはずですが、支援物資やボランティアはそんなに順調ではないようです。小さい避難所にはあまり食料も届かず生活が大変なようです。知り合いが仕事で厚真、鵡川方面を車で走っていますが、町の中心部の建物は鵡川町ではかなりひどく傷んでいるようです。厚真町は中心街の立て直しをしてまだあまり年数が経過していないので大丈夫だったようです。農村部は古い建物が壊れてしまったものがあり、特に酪農家の牛舎が壊れてしまったところが何戸かあるようです。牛は他の酪農家へ移動させて貰ったりしているようですが、これから牛舎を新しく立て直して搾乳システムも新しく揃えて経営を再開するのはかなり大変な事でしょう。経営者の年齢にもよると思いますがこのまま経営再開を断念する人が多いのかもしれません。

今回の災害で私が特に感じたのは水のないことに対する不安です。電気がないのは懐中電灯その他で何とか過ごしていけましたが、断水してしまうと生活がかなり不便になります。幸いにも私の職場は水道が出ていたので毎日仕事帰りに水を沢山運んでくることができました。でも。水道から出ない水を使用するのは大変です。手を洗うにしても、ペットボトルを片手で持って片方の手を交互に洗うしかありません。食器を洗うのも大きな入れ物に水を貯めてその中で洗うのですが洗剤で洗った後いつものように沢山の水で流すこともできません。何となく不衛生になってしまいます。さらに、トイレはもっと大変です。一回流すとトイレのタンクに20Lの水を入れなければなりません。20Lの入れ物に入った水を抱えて入れるのは私の体力では無理で1Lくらいづづすくって20回くらい入れなければなりません。へとへとになります。携帯トイレも使用してみましたが、何日間もこれを使用する気にはなりませんでした。

今回の災害で水の大切さが身に染みました。5日間ではありましたが水道の蛇口から水が出ないということは、風呂もトイレも台所も洗面所も使用できなくて不衛生な上に精神的な辛さも感じました。

開発途上国に井戸を掘りに行く技術者やボランティアの仕事の重要性が感じられました。

 

震度6強 安平町

このような災害に自分が遭遇するとは夢にも思っていませんでした。ニュースで確認したところ一番ひどい地域では震度7に達し映像で見たところとんでもない規模の土砂崩れで一つの集落がほとんど巻き込まれてしまったらしい。時間が経つにつれて遺体となって発見される人が増えてきていますが何とも悲しいことです。

我が家は前の日の台風の強風のため夜中に屋根の鉄板の一部が剥がれて落ちてしまいました。このことでかなりショックを受けましたが大急ぎで業者にお願いして雨漏りしないように応急処置をし一安心して就寝したら夜中にこの大地震。私が感じたのは、最初に縦に揺れ、すぐ大きな横揺れがしばらく続いたように思いました。起きてみると既に停電、いろいろな物が散乱し冷蔵庫の中身まで転がっていました。まだ暗いうちだったので明るくなる頃まで寝てから起きてみると停電の他、断水もおこっていました。歩くのに危険なものだけ軽くかたずけて取りあえず仕事に出かけましたが、隣町にある職場では水道は来ているものの停電になっていました。昔は停電でも使用可能だったのに今の電話は停電になると全く使用不能となるため事務所機能は全く麻痺状態です。仕事の依頼は直接個人携帯に入ってくる状態となるため、その日は取りあえずの仕事が終了したら、事務所に待機しても意味がないのですぐ帰宅してかたずけを始めました。まず家の点検をしてみましたが家が倒れてしまうのではないかと思うほど揺れたにもかかわらず幸いにも痛んだ所はありませんでした。家の中は少しずつかたずけていますが、何といっても一番こたえているのは断水です。もう断水3日目になりますが、町内の給水所に行っても入れ物を用意していないと入れてこれないし、飲用水が優先なのでトイレのタンク用に沢山持ってくることはできません。入れ物自体そんなに用意してはいませんでしたが、たまたま職場は停電していても水道は出ていたので段ボールにビニール袋を入れて水を運んでくることができ何とか間に合わせることができています。でも、トイレは使用するたびに20リットル近い水をタンクに手で補充するのはなかなか大変です。あまり気分は良くないけど携帯トイレの方が簡単です。色々工夫してもどうしようもないのがお風呂です。電気があっても水道がだめだと給湯用ボイラーは使用できないし、やかんにお湯沸かしても足りないし、何とか早めに断水が解消してくれるのを待つだけです。

今回このようなことに遭遇し思ったのはやはり情報が伝わらないことでした。特に身近な情報は全く伝わらず、役場が広報車で回っても内容が聞き取れず、電話は不通、ホームページを見るようにいわれても混み合っていて繋がらず、何時、何処で給水が行われているのかも全くわかりませんでした。今日仕事が休みだったので町内を回ってみたらなんとすぐ近くの会館が給水所になっていました。電波状態が悪くてもメールやラインは通じるので、事前に役場にアドレス登録して災害時の情報発信はこれを使用してもらいたいように思いますができないのでしょうか。是非取り組んでほしいものです。また、携帯ラジオ、乾電池、携帯電話のソーラー充電器は用意しておくべきだとつくづく思いました。

 

 

 

 

 

熱中症か体力の限界か  シニアのつぶやき

今年の夏は例年になく仕事に疲れているような気がします。仕事の性格上、毎年、夏は忙しくなるのですが、今年は特に毎日の身体の負担が大きいような気がします。自分の年齢が上がってきているためなのか。自分なりに分析してみると2つの要因があるような気がします。

まず一つは、体力的負担です。自分がシニア世代になって気分的には何も変わってないように思っていますがいつの間にか体力が弱くなっている、例えば握力一つとってもかなり弱ってきているようです。それに加えて今年の気候の悪さが体力の消耗に拍車をかけているような気がします。例年ならば北海道は7月頃から晴れた湿度のあまり高くない気持ち良い天候が続くはずですが今年は例年と全く違っています。台風がハイペースで発生している影響で9月に入ってもまるで本州の梅雨時期のような気候が継続しています。この梅雨時期のような湿度の高い暑さが外勤を中心に働いている私にとってはかなり悪影響を与えています。今年のような湿度の高い夏は今まで北海道に生活していて経験ありません。40歳くらいの時、事務仕事中に熱中症になって以来湿度の高い暑さに非常に弱くなっているので今年のような暑さは非常につらい状況です。

もう一つは、管理職から外れる年齢になって大きな責任なしに働いている状況が影響しているのではないでしょうか。毎日一生懸命働いてはいるのですが心のどこかに今日の仕事を何とかこなそうという気持ちだけがあり、管理職時代のような気分的な高揚感は全くなくなっているためだと感じます。まあ、これは仕方のないことかもしれませんが、60歳を過ぎて管理職を外れるとやはり今までとは違う安堵した気分になってしまっています。このような気分に加え本俸が七割に減額されていることが追い打ちをかけているような気もします。でも、悪いことばかりではなく、昔管理職になる前の時代には全く支払われなかった時間外手当が、今の時代はすべて払われるようになっています。管理職をはずれた今は忙しくて残業になった場合は時間外手当がすべて支払われています。少し救われます。

国は年金受給開始年齢の引き上げに伴い、高齢者が少なくとも年金受給開始年齢まではその意欲と能力に応じて働き続けられるよう、高年齢者の安定した雇用を確保するための処置として高年齢者雇用安定法を制定しています。この法律では65歳未満の定年を定めている事業主に対して65歳までの雇用確保のため、①定年の引き上げ、②継続雇用制度の導入、③定年の定めの廃止のいずれかの処置をとることを義務付けています。

私の職場は定年の引き上げが採用され、現在一般職員として2年目を迎え働いていますが今年は3人も職員がやめて代わりに新人が入ってきたこともあり、今までと同様かそれ以上の内容の仕事を強いられています。最初の予想ではもう少し余裕のある働き方ができて夕方5時にはゆっくり退社できるものと思っていましたが現実は厳しい状況です。こんなに働くなら本俸も七割に減らさなくてもいいのではないかと思いますが、そんなに都合の良いようにはいきませんよね。

時間外手当がでるだけでもよしとしなければ。・・・・これって考え方古い?